1 はじめに
現在日本では、「信越トレイル」「みちのく潮風トレイル」をはじめ全国各地のトレイルを国内外の多くのハイカーが歩く姿がごく普通のように見られるようになってきている。環境省が「ロングトレイルの維持管理・運営システム構築の考え方」を明確な形で示したことも背景として、各地に管理運営システムを備えた本格的な「ロングトレイル」が開通しつつあるとともに「東海自然歩道」をはじめとする「長距離自然歩道」再生の動きも活発になってきている。同時にわが国の「ロングトレイル」に対する国内外各方面からの関心も高まり、様々なメディアでも華やかに取り上げられるようになってきた。
その意味では、加藤則芳が1990年代後半に初めてわが国に「ジョン・ミューア」というアメリカの国立公園システムの基礎を作った思想家と「ロングトレイル」という文化を紹介した、「ロングトレイル」という言葉自体がほとんど理解されなかった時代から考えると劇的な変化であるといえる。
わが国の「ロングトレイル」の歴史は、1990年代から2000年代初頭の黎明期から、「信越トレイル」や「みちのく潮風トレイル」など本格的な管理運営システムを備えたトレイルが生まれ定着していった時期を経て、まさに新たなステージに入ったと言える。
「長く歩く旅」の魅力や意義が様々な場面で語られ書かれるようになることで、わが国における「ロングトレイル」への理解も格段に深まってきている。
しかしその一方で、則芳が最後まで強く訴え続けていた「ロングトレイルという文化」の根底に流れる「自然保護のあり方考え方」について明確に語られることは極めて少ない。様々な場面で日本の「ロングトレイル」における加藤則芳の功績について語られる際でも「各地の自然と歴史、文化を繋ぎ」、「人と人との心を繋ぐ」という観点での魅力や価値については繰り返し強調されるが、その根底に流れる理念としての自然保護の観点について明確に語られることは少ない。
2 加藤則芳の「ロングトレイル」にかけた想い
加藤則芳がわが国に本格的な「ロングトレイル」を作るために生涯をかけで情熱を傾けたのは、「ロングトレイルという文化」の背景にあるアメリカの世界で最も進んだ自然保護の思想とそのシステムを日本にも定着させたいという強い思いがあったからである。
ロングトレイルの世界に入っていく人々のアプローチの仕方は様々だと思う。しかし、自然保護活動家としてアメリカの国立公園法の基礎を築いたジョン・ミューアの研究を通して「ロングトレイル」の世界に入っていった則芳が、最期まで強くこだわり続けたのは、「社会人である前に本来自然人であった」はずの人間が、自然の中に入り自然と遊ぶことによって初めて自然と共生し、自然を守り育てようという気持ちが生まれるという考え方であった。
それは、産業革命以降高度経済成長の流れが自然の征服志向によって大自然を破壊し続けてきたことへの警鐘として、「自然を征服し破壊し続けるのではなく、人はあくまで自然の一部であり、自然を守り自然とともに共生していくことの大切さを学ぶことができるのだ。」という、アメリカ東部の町コンコードを拠点に活動したエマーソンやホーソン、D.H.ソローなどの自然主義の流れをくむジョン・ミューアの基本的な立場であり、その考え方を踏まえて世界で最も早く確立したアメリカの「国立公園システム」の基本理念でもあった。
則芳が最期までジョン・ミューアという名前が冠についた「ジョン・ミューア・トレイル」が自分の聖地でありホームグラウンドであると言い続けてきたのは、「ジョン・ミューア・トレイル」が、彼の思想を背景に世界で最も早く作られた「国立公園制度」のもとに、世界で最も「すぐれた自然保護システムをもつアメリカの象徴的な存在」だからであった。
3 著書の中から
以下「ロングトレイル」に関わるすべての人々が、常に念頭に置き心に刻んでおくべきことがらを、加藤則芳自身の言葉のなかから選んで紹介する。
それこそ、「ロングトレイル」にかかわるわれわれが、常に立ち返るべき原点であるといえる。
★ 『日本の国立公園』(中公新書 2001年) ★
「自然保護憲章(1974年制定)は、「1974年に国民各界の代表者によって組織された自然保護憲章制定国家会議において採択された、自然保護に関する国民的倫理の指標である。……この理念、精神こそ、すべての人間が自然生態系を基礎として行動し思考することを提唱している条文であり、まさに21世紀にわれわれ人類がとるべき姿勢を示している。」
<以下 自然保護憲章抜粋>———————————————————-
われわれは、いつの日からか、文明の向上を追うあまり、自然のとうとさを忘れ、自然のしくみの微妙さを軽んじ、自然は無尽蔵であるという錯覚から資源を浪費し、自然の調和をそこなってきた。
この傾向は近年とくに著しく、……自然界における生物生存の諸条件は、いたるところで均衡が破られ、自然環境は急速に悪化するにいたった。
この状態がすみやかに改善されなければ、人間の精神は奥深いところまでむしばまれ、生命の存続さえ危ぶまれるにいたり、われわれの未来は重大な危機に直面するおそれがある。
今こそ、自然の厳粛さに目ざめ、……自然をとうとび、自然の調和をそこなうことなく、節度ある利用につとめ、自然環境の保全に国民の総力を結集すべきである。
よってここに自然憲章を定める。
・自然をとうとび、自然を愛し、自然に親しもう。
・自然に学び、自然の調和をそこなわないようにしよう。
・美しい自然、大切な自然を長く子孫に伝えよう。
1 自然を大切にし、自然環境を保全することは、国、地方公共団体、法人、個人を問わず、最も重要なつとめである
3 開発は、…いかなる理由による場合でも自然環境の保全に優先するものではない。
4 自然保護につての教育は、幼いころからはじめ、家庭、学校、社会それぞれにおいて、自然についての認識と愛情の育成につとめ、自然保護の精神が身に着いた習性となるまで、徹底をはかるべきである。
9 自然環境の保全にあたっては、地球的視野のもとに、積極的に国際協力を行うべきである。
★『ロングトレイルという冒険』(技術評論社 2011年)★
「「人間は本来、社会人である以前に自然人であったはずだ。」これがぼくの基本姿勢だ。これがぼくの基本姿勢だ。… 自然と一体だったはずの人間が自然人ではなくなったがゆえに叡智を失い、温暖化などの地球破壊行為が行われてきた。叡智とは単なる知識ではなく、人間が自然と共に生きてゆくための哲学を有した知識のことをいう。」
「人間の最も原初的な移動手段である歩くという苦痛を伴う方法により、ひとりでも多くの人に自然の仕組みや美しさを体験してもらい、自然への畏敬の念を抱いてもらい、自然を守ること、自然と共存することの大切さを知ってもらいたい。これが、ぼくの思いだ。」
「本書でぼくが伝えたかったことは、ひとりでも多くの人に自然に触れてもらうことだった。自然に触れることによって、はじめて自然を知る。少しでも自然を知り、自然と人との適切なかかわりのあり方を考えてくれる人が増えてくれることを望んでいる。」
★『ロングトレイルを歩く』(PHP研究所 2013年7月)★
「自然と遊ぶことで自然を知り、理解して、愛する。 愛することによって、自然を守ろうとする意識が芽生える。」これは、僕の心の師であるジョン・ミューアが遺した言葉だ。
<「エピローグ」から>
「人間は本来自然人であるべきだという基本の大切さを、自然なくして生まれ、そのま死んでいくことができる現代人に、とりわけ子供たちに伝えたい。これがぼくの思いだ。」
「地球の危機は、自然からかけ離れたところで、頭だけでものを考えるという、本来あるべき人間性を失った、現代人が犯した罪なのだ。現代人は本来の人間から退化しつづけている。」
「思えば、山を歩き、美しい自然を愛したぼくの人生は、それ自体、ロングトレイルそのもののような気がしてならない。あのジョン・ミューア・トレイルの崇高な森と、その上に広がる美しい空を眼に描きながら、ぼくはいま、日本の自然保護文化の充実と、ロングトレイルの明日を夢見、そして信じている」
(2013年3月おそらく死を悟った最期のことばだと思う。この言葉のわずか1ヶ月後の4月17日に加藤則芳は息を引き取った)
4 おわりに
「みちのく潮風トレイル」は、「信越トレイル」とともに「ロングトレイル」という文化を日本に紹介し、その定着のために尽力してきた加藤則芳の想いを受け継ぐ形でスタートを切り、今日まで発展してきた。
くりかえすが、
加藤則芳は、アメリカで「自然保護の父」「国立公園の父」と呼ばれ、自然の生態系を重視するエコシステムを考え、「国立公園」という優れた自然保護体制を生み出したジョン・ミューアに強く惹かれ、1995年に『森の聖者』というミューアの伝記本を書いた。ミューアが、その自然とともに生きたシェラネバダ山系一帯を貫く「ジョン・ミューア・トレイル」を踏破したのが、則芳の本格的な「ロングトレイル」のはじまりである。このトレイルを自分の「ホームグランドであり聖地」であると繰り返し語っているのは、前述のとおり「ジョン・ミューア・トレイル」が、彼の思想を背景に世界で最も早く作られた「国立公園制度」のもとに、世界で最も「すぐれた自然保護システムをもつアメリカの象徴的な存在」だからである。
日本の「ロングトレイル」文化の普及発展にも力を注いでいる「みちのく潮風トレイル」をはじめ各地の管理運営にあたる者、そして各地のロングトレイルを愛し、その美しい自然と人々の暮らしとともに育まれてきた文化の中を旅する全てのハイカーは、常に加藤則芳が最期まで追い求めた「ロングトレイルという文化」の根底にはアメリカの国立公園の思想をお手本とした自然保護の考え方が流れていること、そして、そのような自然保護システムを日本にも定着させなければならないという強い思いから「ロングトレイル」に取り組んできたことを忘れてはならない。
最後に、加藤則芳は以上のような想いを実現する第一歩として「信越トレイル」作りに全身全霊でとりくみ、そのなかで自ら「信越トレイル憲章」を起草した。その中には彼の「ロングトレイルという文化」の目指す自然保護への想いが熱く情熱的に語られている。全てのハイカーには、合わせてこの「信越トレイル憲章」にもぜひ目を通していただきたいと思う。
2026年1月
(文責:認定NPO法人みちのくトレイルクラブ 理事・加藤正芳)
